昨日のブログでこんなことを書いた。(外堀から埋められる正しさ)
正しく生きることが求められているにも拘らず正しい生き方がどういうものであるかはこの国では語られず、それならば正しく生きずとも好きなように生きればよい。
あれはダメ、これはダメと間違った答えは教えてくれる。
正しい答えは明かされないからこそ自分の好きなように生きればよいと思ったし、答え合わせは自分ですればよいと思った。
ふと思い当たる。
ドーナツの穴のような空いた空間は、もしかすると、テスト問題のようなもの。空欄に答えを書き入れることが一人ひとりに求められているということかもしれない。
それが生きるということであり、
人生ということ。
当然のことながら、それは一人ひとり異なっている。
答えも異なっているからこそ、誰も正答を教えてくれない。
教えられない。