昨日のブログで長渕剛の歌を紹介した。(Hello 悲しみよ!俺が欲しいものは)
その中で「俺が欲しいものは」という流れに乗って筆者の欲しいものについても書いた。
俺が・・・
と書いて、改めて自分を呼ぶ一人称について思いを馳せることになった。
「俺」と自分のことを呼ぶのは随分久しぶり。
「僕」も学生時代の自分の呼び方。
「俺」が友人と一緒にいる時に使うのに対して「僕」は目上の人や公式の場所で使う少しかしこまった自己表現。
社会人になってからもしばらくは「僕」を使っていたけれど、いつの頃からか仕事では「私」を使うようになっていた。
それがいつの間にか癖になり、大学時代の気の置けない仲間達と会ってもつい「私」が出て赤面してしまったことも。
俺と僕と私と・・・
それぞれの呼び方をすることで自分の立ち位置、相手との距離感が異なる気がする。
自分という存在は変わらないのに自分で自分の呼び方を変えるだけで自分の意識すら変わってしまう。
「俺」は「若さ」や「男」を自分自身に意識させる。
「僕」は「若さ」と「育ちのよい男の子」を連想させる。
「私」は「社会人」や「責任のある大人」を自覚させる。
英語には"I"しかないけれど、日本語には俺と僕と私と・・・他にも山ほど一人称がある。
それが日本語の豊かさであり、日本人の精神的、情緒面の豊かさ・・・とまで言ったら行き過ぎだろうか。
一人称を時と場所と状況に応じて使い分けるその繊細さが文化を作り、自己の深みを増すとこれからも信じていきたい。