今年の月末「月一企画」は映画の感想と学びを書くことに決めた。
1月はベン・スティラーの「LIFE!/ライフ」。2月はスタジオジブリの「かぐや姫の物語」、3作目は「マトリックス」を選ぶことにした。
ここ数日、いや、この1ヶ月ほど大きな流れの中にいるかのよう。
昨日のブログの最後に「最近感じていることが繋がり始めている・・・」と書いてその流れで1999年に公開されたキアヌ・リーブス主演のSF大作を選ぶことにした。
一昨日書いた「比喩と物語の秘密」もこの映画のことが頭にあったから。
一部抜粋しよう。
自分が痛い目にあって学ぶことが一番だけれど、そうでないと学べないのかというとそれもまた正しくはない。
そのキーワードが「疑似体験」。
他人の経験をあたかも自分がしたかのように捉えられることで実体験をした時と似たような脳の動きになるから。
それを作るのが巧妙な「比喩」であり、秀逸な「物語」。
何故、比喩や物語が疑似体験を促すかというと、
実体験自体が何かの比喩であり、人生自体が一つの物語であるから。
本質的には、実体験も疑似体験もなんら変わりがない。
我々が現実と認識しているこの世界、この体験も誰が実際に現実に起こっていることであると証明できるのか。
我々自身の存在も本当に「在る」と断言できるのか。
我思うゆえに我あり
それを真実だとする証拠はどこにあるのか。
比喩と物語がいつの時代も人間を魅了するのは、
それ自体が我々の人生を表すからに他ならない。
映画の中で モーフィアスがキアヌ・リーブス演じる主人公ネオに問う。
現実とは何だ? 明確な区別などできん。五感で知覚できるものが現実だと言うならそれは脳による電気信号の解釈にすぎん。 神経相互作用が創り出した虚像の世界。 それがマトリックスだ。君は空想世界に生きていたんだ。マトリックスとは、支配。コンピュータが創り出した仮想世界。
捕らえられたモーフィアスにマトリックス側の使者である「エージェント」が説明する。
(高層ビルの窓から広がるこの世界を眺めながら)
見事だと思わないか?
この完成美と優れた独創性には舌を巻く。
数十億の人々がこの中で生涯を過ごす。
忘却と共に。
そもそもマトリックスは
人々が苦しまず幸せに暮らせる理想郷を築くために考案された。
だがプログラムは拒絶され中の人々は全滅した。
我々のプログラムが理想郷を描くには不十分だったと言われた
だがそれは違う。
人類は不幸や苦しみがないと現実だとは思えない種なのだ。
だからこそ理想郷は人類の原始的な脳には悪夢となり拒絶された。
そしてマトリックスは今の形になった。
君たちの文明が作った最高傑作なのだ。
そう言ったが、君たちの代わりに我々が考えた我々の文明だ。
我々が人類を支配している。
進化せぬものは滅びる運命なのだ。
現実と虚構が入り乱れ、不思議な感覚に包まれる。
ネオがモーフィアスに連れられてオラクル(預言者)を訪問した時、待合室でスプーンを自由自在に曲げる(救世主の候補者)の一人(こども)にこう言われる。
スプーンを曲げようと思ったら、曲がらないよ。
そうじゃなくて真実を見ようとしなきゃ。
真実?
曲がるのはスプーンではなく
自分自身だよ。
ネオはそれを聞き、いとも簡単にスプーンを曲げる。
自分が真の救世主かどうかをオラクル(預言者)に尋ねようとするネオに彼女がこう答える。
己を知れ(ラテン語で書かれた飾り)
救世主であることは
恋をするのと同じ。
それは自分しか分からない。
心と体すべてが実感するもの。
そして、 こうも。
道を知ることと実際に歩むことは違う
我々が住んでいるこの世界。
現実と思い込んでいるこの世界がマトリックスに支配されていないと誰が言えようか。
仮にそうでなくとも、
自分自身が何者からも支配されることなく自由に生きるために
己を知り、
心を解き放とう!
そう思った。