無名の英雄たち


東日本大震災は凄惨な状況を無数に生み出し続けている。



大地震でも、大津波でも、原子力発電所でも・・・



心が絞めつけられる。



一方、無私の行いで人間の強さや尊厳を思い出させてくれるニュースも時折舞い込んでくる。



昨日書いた通り、我々はもっともっと明るい面を見てもよいのではないか。



完璧主義の傾向のある民族性がマイナス面ばかりを見ようとしているのではないか。



一人の人間でもどんな組織でもマイナス部分を指摘され、それを修正しようとするだけではモチベーションは上がらない。



たとえ修正がうまくいったとしても欠点のない人間や組織ができるだけ。



魅力的な存在とは言い切れない。



むしろ多少の欠点があったとしてもプラスの部分に焦点を当て、そこを伸ばす方が圧倒的に健康的だし、魅力も増すはず。そう、長所伸展法という言葉もあるではないか。



この未曾有の危機に我々が出会った「無名の英雄たち」を思い出そう。



Yahooトピックスより。



自己犠牲50人「最後の防御」米メディアが原発作業員を絶賛 
東日本大震災で1000人を超える死者・行方不明者を出した岩手県大槌町で、大槌町消防団第2分団(越田弘分団長、28人)の団員たちは、防潮堤の門扉を閉じ、住民を避難させようと最後まで海辺にとどまった。任務を果たした結果、4人が死亡し、7人が行方不明。その中の一人、越田冨士夫さん(57)は団の象徴である「半鐘」を鳴らし続け、津波にのみ込まれた。



津波の第1波の襲来まで庁舎内には約30人の職員がいた。しかし、無事が確認されたのはわずか8人。遠藤副町長もその一人だった。
依然行方が分からない職員の多くが防災担当だった。防災無線を使い、ぎりぎりまで住民に避難を呼び掛けた。屋上に避難してフェンスやアンテナにしがみついたが、津波の力は想像をはるかに超えていた。
階段の手すりにしがみついて一命を取り留めた佐藤徳憲総務課長(60)は、第1波の後、多くの仲間が消えていることに気付いた。「何とも言えない失望感。ただそれだけだった」
安否が確認できていない町職員は30〜40人で、全職員の約2割に相当する。これから町を担う30代の中堅職員や10〜20代の若手職員が含まれる。
地震の際、津波を警戒し、町の職員は陸門の閉鎖を確認し、全庁をあげて町を守る。「住民を守る一心で任務に当たり、逃げる最中にのみ込まれたかもしれない」。仲間を失った職員の一人は、やりきれない表情を浮かべた。



津波被害で浸水した宮城県石巻市立病院は一時、孤立状態に陥った。停電と断水、通信遮断。約150人の入院患者が無事にヘリコプターで搬送されるまでの4日間、スタッフは暗闇の中で奮闘した。
病院によると、11日の地震後の津波で1階が浸水し、職員が手分けして3、4階にいた入院患者を上階に移動した。
非常用電源が約30分で途絶えて照明が消え、外部との連絡手段もなくなった。外科手術中だった男性患者には、応急処置を施した。
周辺では大規模な火災も発生した。爆発音が聞こえる中、医師らは懐中電灯を手に入院患者の処置を続けた。事務次長の鷲見祐一さん(56)は「病院は患者を守るのが使命。何とかしたいの一心だった」と振り返る。
翌12日、鷲見さんと医師が腰近くまで水に漬かりながら、病院の外に出て連絡に走り回った。その結果、災害派遣医療チーム(DMAT)によるヘリ搬送が始まった。
院内のスタッフ200人は乏しい食料を分け合い、交代で患者に対応した。臨時職員の佐藤野里子さん(30)は「とにかく団結できた。普段頼りないスタッフも頼もしかった」と話す。14日夜、最後のヘリを送り出した。



18日の「非常に難しく危険な任務だった。国民の期待をある程度達成でき、充実感でほっとしている」
というのは、福島第一原発の冷却作戦で、10時間以上の「連続放水」を成功させた東京消防庁「ハイパーレスキュー」の隊員の言葉。記者会見で涙を浮かべ、声を震わせながら「隊員は非常に士気が高く、みんな一生懸命やってくれた。残された家族ですね。本当に申し訳ない。この場を借りておわびとお礼を申し上げたい」と言った。
高山隊長は18日、職場から直接現地に向かった。妻に「安心して待っていて」とメールで伝えると、「信じて待っています」と返信があったという。
佐藤総隊長も妻にメールで出動を伝えた。「日本の救世主になってください」が返事だった。



他多数



我々の中にいる「無名の英雄たち」を称えよう。



我々一人ひとりの心の中にいる「無名の英雄」を呼び覚ますためにも。